暇はあっても退屈でもなし。

日々のぼやき

毎日必ず、ではないけれど、朝の略盆手前は先週からまだ継続中。

猫スヌーズでの起床後とりあえず猫たちに餌を出してから小さい鉄瓶でお湯を沸かしながら道具を準備。順番間違いに気づいてやり直し入れたりしながらお茶を点てる側から隣の部屋で茶白猫のえずいてる音が聞こえてきて、慌てて行って今食べたものをそっくり粗相してくれてるのを片付けて…と、実際優雅さやら精神集中やらとは程遠いけど、それはそれでよしとして。

道具を片付けてから猫の餌皿や猫トイレの始末、散った猫砂の掃除から床全体のワイパーがけ、夜干した洗濯物を畳んで長男のと自分のとに分け、アイロン待ちのものが溜まっていればアイロンをかける。アイロン台は調布の夫の所に置いてきたので、テーブルにアイロン用のマットを広げての作業なので、長男が起きてきて食事をしているときにはしない。

着替えて化粧したり、ベランダのメダカに餌をやったり、とこの辺は順不同。合間にスマホでゲームもしてたり。

実は出勤していた頃も同じことしてた。しようとしてた。

当時はこれに加えてそんな手の込んだものではないとはいえ弁当も用意していたことを考えると、自分で思ってたより随分とがんばっていたのだと思う。当然忙しなすぎて、朝の茶稽古は思いに反して実際にはできる日の方が少なかったし、掃除は散らかり汚れが溜まっていくスピードに全然追いつけていなかった。

それを考えると今手にしたこの時間の余裕は、代わりに失った懐の余裕を差し引いても自分にとってはお釣りがくる価値。

母も週3の透析通院で安定しているし、その他フォローの要る用事のサイクルも落ち着いてきた。再度懐の余裕についても回復を図ることを考えるつもりでもあったんだけど、今の時間と気持ちの余裕を代償にすることなしにできるような仕事って、そんな虫のいい話があるもんだろうか。

でも「そんな虫のいい話」と思ってしまう発想がすでに何か囚われた価値観かという気もしてみたり。

今の自分はどこかに雇用されているわけではないけれど、だからと言って「働いていない」とカテゴライズされるのは何となく抵抗も感じる。別にそう思われたとしても実際のところ自分になんら損害があるわけでもないのに。これもやっぱり自分自身の感覚がどこか囚われているがゆえということか。

それにつけてもうちの長男、就職して試用期間から本採用になって1ヶ月もしないうちに仕事をやめてそれっきりという強者だが、その辺どういう感覚なのだろう。10代のうちには一般で言う社会生活は難しそうだと親として覚悟はしていたが、何かしていなくてはとかどこかに所属しなくてはという不安から完全にフリーかのようで、我が子ながら謎でしかない。

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