いまさらだけど、「告白」(町田康)

気になる本棚

「くっすん大黒」から「パンク侍」「ギケイキ」に至るまで、町田康独特の文体でもって一人称小説であるからか、どの主人公も本質的に同じタイプのような印象。「スピンク」シリーズについては例外的に犬が語るメタ発言のような作品なのだけど、一貫して主人公の考えていることが氾濫するコトバの渦に押し流されて、安易な共感やら寄り添いやらは煙に巻いて逃げ去るかのように。

実はこの作品、遠い昔新聞の夕刊連載時点でついていくことに途中で挫折して今に至る。葛城ドールの辺りまでは記憶がある、ってまだ全然さわりまでしか読んでなかった。言い訳でしかないけど町田康の文章って、毎日少しずつで読み進めるというスタイルは勢いがそがれて一番向かないんではないかと個人的には思っている。

今になってこの小説を読み直したのは、たまたまある場所に置いてあったブレイディみかこ「他者の靴を履く」を手に取ってみたらその中で言及されていたのがきっかけ。そう言えば途中(というかほぼ冒頭)で中断していたな、と。

そもそも最初は親の愛情を十分に受けて褒められながら育った主人公、同年代のコミュニティに参加する年頃になってみるとどうも己が周りの大人に持ち上げられているほど特別優れてもいない、むしろ他に比べてある意味劣っているのでは、とうっすら気づくほどには主人公は愚鈍でもなく、自分や周囲の状況に対する認知能力はむしろ他者よりもそこそこに高い。ただ、それを言動につなげることが壊滅的にうまくいかない。もがけばもがくほど、熊太郎のすることは裏目に出、成長するにつれて立派なろくでなし街道を驀進していく。

決してサイコパスでもなく、むしろ頭の中では自分にとっても周りにとっても善い方向を選ぼうとする意志はあるのに、なぜかその行為が得てしてろくでもない結果ばかりを招くことになる。考えと言動を一致させることができないまま、そしていつしか自分の思想と言葉が合一したときに自分は死ぬのだろうという予感だけが主人公の中に根を張っていき、その絶望と投げやりの判断からからよくない方へよくない方へと螺旋階段を転がり落ちていく挙句に起こる「河内十人斬り」。

最期の最期になにか真実の言葉を見出そうとして、「あかんかった」と事切れた後、河内音頭の狂騒をただただ見つめる主人公の魂。

「告白」の主人公熊太郎の苦しさは他の町田康作品の多くの主人公とも共通しているのだけれども、中でも際立って群を抜いている。自分の奥底の想いと言動を合一させたいと願いながらなぜかそこから逃げるように逆の現実へと駆り立ててしまうものはなんだろう。一言で言ってしまえばそれは熊太郎の「弱さ」でしかないのだけれど、「弱さ」という一言で片づけてしまうのはあまりにも切ない。

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