整うも整わぬも。片岡洋次郎「整体。共鳴から始まる 気ウォッチング」

ご自愛専一

1年少し前から通い始めた整体ジムに相変わらず週1ペースで通い続けている。当初は右肩の違和感で通い始めたのだけれども、1年と数か月経過した現時点で右よりも左肩の方が動かなくなってきた。腰も右にだけ違和感が出てる。肩は遅れてきた五十肩だろうし、腰は4、5年前にも神経痛やったりで身体の使い方の癖があるのかもしれない。

問題箇所が増えてるのに継続して行く意味あんのか?とはならなくて、むしろ週1プロの手を借りてるからこそこの程度の不具合に留まっていられ野だと思う。放っておけばとにかくどんどん不具合だらけになるしかない年齢なんだし、少なくとも右肩の可動域は少しだけ取り戻し、巻き肩はかなり改善できた。無論他力本願にならないよう自分でも少しは動かす努力しようとも思う。思うだけで実際のところはほとんど何もしないうちにまた次の整体の日がきてしまう現実。

場所柄そんなに垢抜けた設備でもないし(そもそも垢抜けた整体院というのも少々イメージしにくいが)Spotifyでずっと流れてるラップ調の曲の歌詞も全然しっくりこない。それでも今通っている整体院はそれなりに自分に合っているのだろう。

いずれにしろ”共鳴”によって新たに身体が向かう方向というのは、身体が潜在的に向かいたい方向である。身体の勢いのおもむくままどこへ向かうかは、その人の自由であり、身体そのものの判断というべきもので、元気になって仕事に意欲を燃やす人もいれば、誰かを好きになったりする人もいる。全てを変えてしまいたくなって、仕事をやめたり、誰かと別れたりする場合もある。それらを何らかの価値観によってコントロールしようと思えば意識は濁り、共鳴そのものを阻害する。

読んでいておもしろくて仕方ないのだけど、自分はこの本に書いてある内容半分も理解できていない。理解できないなりになんとなく分かる気もする、というのもまた変な話だけど。言葉にはこだわりが強い方だけれど、その分ノンバーバルの領域への興味も人一倍強い方だと思う。

さて、自分と主に担当してくれている施術者さんがそのように”共鳴”しているかといえば、たぶんそういう次元の話ではない。まだ20歳そこそこな担当者さんは”気”がどうこうとか怪しげなこと(否定の意味ではない。怪しげ大好物)は考えてそうな気配はさらさらなくて、余計な会話一切なく淡々とビジネスライクに業務をこなしてるだけだと思う。身体の機能動作へのアプローチに徹底しているからこそ却って受け手の自分も思考も緊張も抜ききった状態になれるのかもしれない。”共鳴”とは違うかもだけど結果的にそこそこいいところに着地できてるような。とりあえず、こういうのでいいんだよ、と井之頭五郎風になってみる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました