随分昔のだけど、深谷かほるさんの「泣きたい日のクスリ」という短編アンソロジーに収録されている作品『ハンドバッグにチョコレート』というのがある。ムーミンママのハンドバッグのイメージで奮発して買ったおニューのバッグを下げて意気揚々とデートの待ち合わせにやってきた女子、「中身もムーミンママの顰に倣って」と披露するのだけれど、中でチョコレートがでろでろに溶けてしまってさぁ大変、というお話。ネタバレしてしまえば、そんなら僕が新しいの買ってあげるからこれから探しに行きましょうっていう結末。バブル期だってそんなボーイフレンドはまずいない。今ならネットで女叩き連に絡まれそうなファンタジィ。でも、個人的には別に願望くらいはいいじゃないのと思う。そうしてくれるのが当然とか女の子側で要求してるワケでなし。
もとい。当時トーベ・ヤンソンの小説を読んだことなかった自分はこの作品で初めてムーミンママのバッグという概念に遭遇したことになる。そしてその黒のがま口タイプのハンドバッグはひとつの憧れアイコンとして自分の中にもインストールされたのだけど、残念ながら還暦間近の今になってもこれぞというバッグに自分の予算内で出会えていないという現実。
ムーミンシリーズについて小説の方も読んだのはそれからずっと後のこと。なかなかブラックなところもあって、自分的には北欧版の芥川龍之介「河童」でカテゴライズしている。異論はどうぞご自由に。
さて話を戻して、深谷作品のその主人公女子もママに倣ってチョコレートの他に白い靴下を入れている。漫画でそうとは触れられてはいいけど、ひょっとしたら彼女はお茶のお稽古に通ってるか何かで、替えの白靴下(白足袋)を入れることは割と自然に受け入れていたのかも。
ふと思えば整体のときってお茶の稽古どころではなく他人さまに足の裏を見せている。今通っている整体院は1年余り通ってて足裏施術になったのは1回だけだし、出かける直前に履いた靴下だし、これまでわざわざ履き替えたりしなかったのだけど、思い立って整体に入る前に新品に履き替えた。この日そのめったにやらない足裏施術が入ったのは単なる偶然だろうか。
実際履き替えても替えなくても変わりないのかもだけど、自分自身の気持ちの問題として。たかだか靴下を履き替えるだけの時間と洗濯物が1足分増えるだけの手間惜しんでなんだというのか。
ムーミンママのハンドバッグとのご縁がつながらないとしても、今更だけどきれいな靴下はいつも用意している人になろうと反省。
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