雑談で「月の満ち欠けではないけれども、日々楽しみにしていることというのはピークに達した時点で終わりに向かう寂しさが入ってくる」という話を今日された方がいた。夏という季節は他に比べても殊更にそういう感じなのは頷けるし、またそう話した人は北の大地にお住まいなので、さらにその実感は強いことだろうと思う。
そんな話をした今日、ずっと視界の隅に意識しつつもなんでか置きっぱなしの薄い文庫本を読了して、自分もすでにひと夏が終わりつつあるような気分。北の国はともかく、私の住む西の果ての手前の子の辺りはまだこれから数か月はだらだらと暑さが居残るのだけれども。
自らの現状についてそれぞれに抱える居心地の悪さを受容とも諦めともつかないような形で抱えた登場人物たちが束の間緩くつながって、ひと夏の間にまたそれぞれに波紋のように離れていくというただそれだけの、まさに「これはただの夏」というタイトル通りの物語。
小さなTV制作会社で安定とは程遠い生活を続ける四十路半ばの主人公秋吉の仕事仲間である大関にとっての人生のシェルターが鹿児島の離島の寂れたスナック街。全世界のワケありの女の子の吹き溜まりのような店に自身の汚れた心が洗われるのだという。対して秋吉にとってのそれは、モスバーガーや彼の部屋、市民プールといった特別でもなんでもない場所で、やはりワケあり気味の五反田の風俗嬢優香、マンションの同じ階の放置子明菜という、日常で接点もなかったはずの面々とどういうワケか集って過ごすことになる束の間の時間。末期膵臓癌の告知を受けていた大関は病床から要所要所でその時間のためのキュー出し役。
結局は相手のことをよく知ることもないままに優香も明菜もある日突然それぞれに去っていき、やがて大関も闘病からの永遠の休暇へと旅立って小説は終わる。秋吉に残るのは喪失感には違いないだろうけれど、虚無感ではない。切なくはあっても後味悪いとかいうものではなく、この小説の設定の2年後には現実世界では未曾有のパンデミックで東京五輪が1年延期になって、その後なんだかんだでTV業界自体が一気に衰退していく流れになるのだが、秋吉のような人はなんだかんだどこかで飄々とやってそう。優香も明菜も、それぞれに幸せになってたらいいと思う。
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