六月大歌舞伎は萬屋萬壽時蔵梅枝の三代同時襲名公演。先月以上に席はしっかり埋まっているんだけど、開演前の話声の引きも早めで全般に観劇マナーがいつもよりもいい。客層がいい意味で落ち着いている風情な気がした。
上州土産百両首
昭和八年(1933年)東京劇場初演。O・ヘンリーの短編「After Twenty Years」を下敷きに川村花菱が脚本。
掏摸仲間の与一(錦之助)が三次(隼人)に煙草入れをすり取った顛末の手柄話をしているところへい正太郎(獅童)が浮かない顔で帰ってくる。何をやらせても要領悪いが根の正直な幼馴染の牙次郎(菊之助)と今しがた偶然再会して抱き合って喜んだそのはずみ、反射的にたった二文しか入っていない牙次郎の財布を掏り取ってしまった自分が心底いやになったという正太郎。だが同時に牙次郎も正太郎の懐から五両の財布を盗み出しており、牙次郎はすぐさま正太郎を追ってきてお互いにこんなことからはすっぱり足を洗おうと嘆き口説く。そんな二人の姿に掏摸の兄貴分の与一も正太郎に悪い仲間から縁を切って堅気に生きていくことを進め、与一と牙次郎は浅草聖天さまの森で持っていた金を分け合って、10年後に堅気として一人前になった姿でこの場所で再会しようと約束。何をやっても駄目だった牙次郎のことを慮り、約束の日に商売の元手に使わせようとこつこつ貯めた金を牙次郎に渡そうとしていた正太郎だったが、そんな折に凶状持ちとなって江戸を離れて転々としている与一と三次に再会することになる。すっかり堅気となって宿の婿に迎えられようとしている正太郎の様子を与一は喜び、このまま無縁の者として立ち去ろうとするのだが、足抜けした正太郎をよく思っていなかった三次は正太郎を待ち伏せして金を強請る。一方で牙次郎は岡っ引きの下働きをしていたが10年を経てもまったく使い物にならないと仲間うちからも馬鹿にされたままだったが、百両の懸賞首が江戸に入ろうとしているという話を聞いて十年目の約束の日の手柄にしたいと不動に百日の願掛けをする。その百日め、10年目の約束の日となって二人は再会する。そして結末はもう皆まで書かずともだけれども。
結局牙次郎はこの後どう生きたか。まさか本当に後を追ってということはないと思いたいけれど。
義経千本桜所作事 時鳥花有里
「義経千本桜」道行の舞踊は「吉野山」以外にも江戸時代にはたくさん作られていたそうで、今回の「時鳥花有里」については残っていた絵番付を頼りに復活させたものとのこと。白拍子が4人も出て華やかなのが襲名公演向きだったからだろうか。傀儡師種吉を種之助さん、お面の早変わりで後半一度お面が落ちるという場面があったけれども何事もなくさっと拾って滞りなく踊り続けられ、ひょっとしてそこで面が落ちるのも台本だった?と思うくらいで却ってすごかった。
妹背山婦女庭訓三笠山御殿
梅枝改め六代目時蔵さんのお三輪、観ておかない訳にはいかないでしょう。
1771年大阪竹本座、近松半二(他合作)。暴政の限りを尽くす曽我入鹿に追われ園原求女(なんでその名前?)と名を変えて三輪山麓に潜む中臣鎌足の息子淡海に隣家の杉酒屋の娘お三輪は一目惚れして言い交すのだが、そこへ橘姫(実は入鹿の妹)が通うように。それを知ったお三輪は求女との関係の変わらぬ印として赤い苧環を渡すが、その場で橘姫と鉢合わせて争いに。屋敷へと戻る橘姫の後を追って入鹿の屋敷に潜入しようと求女はお三輪に渡された赤の苧環の糸を橘姫の裾に、お三輪はお三輪で白い苧環の糸を求女につけてそれぞれに後を追う。
今回の四段目の一幕にあたる「三笠山御殿」はここから。橘姫(七之助)が屋敷に戻り官女たちに迎えられるがそこで赤い糸に気づいて手繰っていくと求女(萬壽)が現れる。橘姫はすでに求女の招待を兄の敵である淡海と知った上で淡海に討たれて本望と告げ、淡海はその心を汲んで橘姫を妻とする前に入鹿に奪われた宝剣を差し出すよう命じる。官女たちは姫の想い人を婿として屋敷に迎え入れて婚礼の準備に奥で沸き立つ中、淡海を追って今度はお三輪(時蔵)が屋敷へと入り込んでくる。豆腐を買いに出てきたおむら(仁左衛門)と娘おひろ(梅枝)を捕まえて求女らしき人の行方を尋ねるが取り合ってもらえない。(ここで一度芝居を中断、仁左衛門、時蔵、梅枝の三人での襲名口上)。演目に戻り、しばらくすると官女たち(歌六、又五郎、錦之助、獅童、歌昇、萬太郎、種之助、隼人)が現れ、お三輪を姫婿についてきた悪い虫とみなして婿殿に一目会わせてほしいと願うお三輪を婚礼の席に伴うにあたって酌の作法や歌の作法を教える態でお三輪の不調法ぶりを嘲笑しながら折檻し、挙句に馬子踊りでもしてみせろと無理矢理に着物や結髪を崩して去っていく。散々な目にあって悔し涙ながらに一度は諦めて家に帰ろうとするお三輪だったが、奥から聞こえる婚礼の騒ぎ声に嫉妬に狂って奥へと進もうとしたところを漁師鱶七、実は鎌足家臣金輪五郎(松緑)に阻まれる。爪黒の鹿の血と嫉妬に狂う女の生血を鹿笛にかけて吹けば入鹿の力が衰えることから不憫ながらもお三輪を刺したという鱶七に、身分違いの実らない恋ながらも淡海の役に立てたのであれば本望、この世で縁は薄くても来世ではきっと添ってたも、と死んでいくお三輪。
長くなったが以上、四段目の一幕「三笠山御殿」の話の筋。主人公にしても悪役である官女たちにしてもとにかく演者はうまくないとなりたたないし、とかく出演者が豪華になる演目であることは脇に置いても、筋だけでいうと元々あまり賢くない上に恋をしてネジが外れてしまった女の子が散々いじめられた挙句に死んでしまうような話、人は令和の今になってまでなんでわざわざ金払って観に来るのか。さらに演目全体としては前後にも話があって、その前の三段目で恋路を引き裂かれて犠牲になった雛鳥と久我之助は五段目で供養されるらしいけど、淡海はお三輪のこと少しでも思い出したりするんだろうか?そもそも淡海という人物も、お三輪にも橘姫にもなんかひどくないか?などなど。
そういうあれこれを超えた上でこの幕だけ上演回数が重なっていくのは、この物語の中でお三輪が突出して現代人の感情の依り代になれる存在だからではないだろうか。盲目的な恋慕も嫉妬も過去から今に至って忌むべきものとして抑圧されるものだけれども、そういった感情こそが身分や教養的な弁えの枠や劣等感を軽く超えて世界のすべてと自分を対等なものとして扱い、対等の立場で渡り合おうとする。その結果が悲劇的であるほど観客は目が離せなくなるし、それ以上のお三輪への供養もない。
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