日常に紛れ込む神。

気になる本棚

「海の仙人」「雉始雊」

絲山秋子さんの作品は単行本化している分はすでに一通り読んだつもりでいたし、当然この作品もかなり前に読んだはずなのに。

困ったことに、最近記憶の欠落激しすぎ。

読みながら所々に既視感もあるのだけど、結局ほとんど初見のように読み終わってしまった。

近著の「神と黒蟹県」もこの「海の仙人」同様に”神”と定義される存在がそうでない登場人物の中に紛れ込んでくる設定ということで、その記憶と少し混じってしまっているのかも知れない。

あらためて「海の仙人」。2003年というと、20年前の作品。最近の絲山作品に比べると登場人物たちの年代も若いし、神の名前が”ファンタジー”だったり、なんとなく小説の世界観全体に青み。主人公は特にどこか達観しているようでいて、やっぱり全体的には青臭い。でもそこがいい。

生活に困らない金を得て、仕事をやめて敦賀の海で一見無為とも思える暮らしをする主人公河野の許にファンタジーは突如として顕れ、居候を決め込む。

そこへある日旅行にきた一人の年上のキャリア女性中村と河野は心を通わせ、ある種遠距離恋愛のようになるのだけれども、そこへもう一人、河野をずっと想っていたかつての同僚片桐が会いに来る。河野は実姉との間に起きた事情から中村とはプラトニックなままの内縁関係で、また片桐の気持ちもわかってはいるが恋愛関係には進めない。

それぞれがそれぞれの事情を抱えて結局はそれぞれに孤独な存在として立ちすくんでいるかのような、恋愛小説というにはちっとも浮かない、それでもこれは恋愛小説だと思う。

一番のキーになるのは片桐というキャラクターで、彼女だけがファンタジーと対面してそれをファンタジーと認識することができないが、ファンタジーという存在が見えない訳ではない。この小説世界で唯一がさつにふるまっているようで、その芯に誰より繊細な思いやりや報われない悲しさを湛えている。高野文子の描く漫画の中に出てくる、威勢いい方の女子。

「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか?外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負って行かなくちゃいけない最低限の荷物だよ。例えばあたしだ。あたしは一人だ、それに気がついているだけマシだ」という彼女の台詞が、たぶんこの小説の核の部分。

ところで絲山秋子の”神”はなぜ、なんのために日常の中に紛れ込むのか。特に何かの御利益をもたらすわけでも、心の痛みを癒したりするわけでもなく、ただただそこにいるというだけ。孤独な者と語り合うくらい、とファンタジー本人が言う。それでその孤独さえ、特に癒すとかそういうこともなく、「役に立たないがゆえに神なのだ」「俺に救われるんじゃない、自らが自らを救うのだ」なんて(読者に)親切な台詞があったりする、その青みもまたいい。

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