透析開始の入院のため母を総合病院まで送る。お盆とはいえカレンダーでは連休明けの平日のせいか、いつも以上の混雑。入院受付の前にお爺ちゃんを総出で送りに来たらしき賑やか家族三世帯?がひしめいていたりで、お盆らしくて微笑ましいっちゃ微笑ましいのだけど。
あの頃のようになにくれと「三密」や「マスク」警察が跋扈するのも勘弁だけど、かといってすっかりなかったことのようになっているのもそれはそれでなんだか不安。
入院手続き済んで病室まで付き添って、担当医師の先生の説明を受けて、さらに看護師さんと次回の調整。先月の入院時同様に2日か3日に一度くらいのペースで様子を見に来ればいいようなつもりでいたけれど、それ以外にも栄養指導他退院後の通院先の調整ほか、様子見見舞いどころでなく病院に来なくてはならないらしい。
とりあえず母の入院中の2週間はほぼ毎日のどこかしらへのお出かけ送迎の時間が浮いた分、溜めこんでいた仕事や積読本の片付け、なかなか足を伸ばせない街中の買い物も、なんて一人時間の皮算用が早くもしぼんでいく。
そしてまた今回も入院したその日の午後から「あれを忘れた・これが足りない・それを持ってきて」のLINEの嵐。そしてその指定したモノが「あそこに入ってる」と母が指定した場所にはまず見つからない、というところまでがお約束。半年前に買ったキャリーケースを入院用に貸したのだけれども、昨日今日で指定されたものを追加で持っていったら、すでに最初に持って行ったのと同じくらいの容量になりそうな勢い。
相変わらず通販系の冊子やDMでいっぱいの実家の郵便受けに自分宛の大学の同窓会の通知。随分以前に宛先を東京の住所に変更したはずが、なぜかいまだに一部自分の実家宛で送付されてくる。予定だと東京にいる日程ではあるんだけれども、行ってもたぶん自分の会いたい顔には会えるわけでもなし速攻欠席に〇をする。送付先住所変更についてはまた落ち着いてから改めてにしよう。
今会いたい学友といえば10年ほど前に帰天した春菊ちゃん。先日歌舞伎座公演の合間、倉敷からご夫婦でいらしていたtacozoさん夫妻にお会いしたのだけど、その後お二人は銀座ライオンで夕食ということで、その時ふと、それこそ学生の時の話だが、ちょうど夏の今頃の時期、春菊ちゃんと行った古い古いビヤホールのことを思い出す。そこもなかなかに趣のある佇まいの店だったんだけど、思い出せるのはライオンではなかったということだけで、どうしてもそのビヤホールの名前が出てこない。
ライオンいいですね、楽しんできてください。と三部の開演15分前にご夫婦とお別れしてからもしばらく、春菊ちゃんに呼び出されて有楽町マリオン前で待ち合わせした遠い昔の夏休みの記憶がジグソーパズルのピースのように頭の中でばらばらと。その店はその後ずいぶん前にビルごとなくなったし、そして春菊ちゃんももういない。あの時私たちはビール片手に一体何の話をしていたのだろう。それも全く思い出せない。
そこから20年近くあとの話だけれども。春菊ちゃんの自宅を最後に尋ねたのは放射線治療が一段落したクリスマスの時期で、そのときニット帽スタイルの彼女に「東京五輪までには東京は東京を引払うつもり」と宣言したのはなぜか覚えている。そこまでは生きていたい、みたいになりそうな話の流れを無理やり捻じ曲げて塞いでしまいたかったのかもしれない。
結局その後春菊ちゃんは東京五輪を待つことなく次の夏の初めに身罷り、自分の方はパリ五輪すら終わってまだ片付いちゃいないっていう。
学生のときも、あのときも、今も。何をしているんだかねぇ私ってば。
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