早いもんで1月も中旬、大河ドラマも第2回め。主人公まひろ(紫式部)が代筆屋で男の声で、ってさすがにムリでしょそうは聞こえんでしょ、とか、他にも色々設定が意欲的すぎたりもするのだけど、これはあれです、少女漫画だと思ってきゅんきゅんしながらまひろと三郎(道長)を見守りつつ、花山天皇のDQNぶりや藤原兼家や道兼晴明あたりの暗躍サスペンスを楽しむ1年ですかね。
「代筆をしている時だけが私が私でいられる」というまひろの台詞は、刺さる人が多かったことだろう。アフェリエイト系はともかく散文・日記系のブログなんか書いてる人には。しかもまひろはちゃんと誰かの恋文(歌)としての需要があって、(小遊三絵師の総取りとかになっていなければ)多少の対価もあったはずだが、私みたいに別に誰に読まれる訳でもなく、ただ書きたいだけの気持ちで書き続けるしかない者にとって、ブログって本当にありがたい場所だったりする。
タイトルを見て「ごもっとも」と手に取った1冊。書きたいことがあるから、というそれ以上に、それが自分の読みたい文章であってほしい、というのは本当にそう。そして果たして自分の読みたいと思う文章になっているかどうかはさておいて、自分の読みたい文章を書きたい、そこが書くことの動機の原点だよなぁと。
つまらない人間とは「自分の内面を語る人」
この見出しを読んで雷に打たれたような気がした。上っ面な事実より内面から出てくるモノを語ってこそではないのと一見思いがちだし、自分もそう思ってた。でもこの見出しの後の続くただ寒い寒いと不平を言ったり「私ブロッコリなんか嫌い」と不機嫌になったりする人を引き合いにしての説明を読んだらなるほどその通りで、そう言われてもよくて「あぁそうなの」と流すけどよく思わない相手なら「知らんわ」と心の中で打ち返したくなる。
この人たちは、自分の内面を相手が受け入れてくれると思っている点で、幼児性が強いのである。文章でも往々にしてこのように「わたしはつまらない人間です」と触れて回るようなことが起こる。
(中略)
随筆とは、結局最後には心象を述べる形式だということは述べた。しかしそのためには事象を提示して興味を持ってもらわねばならない。事象とは、つねに人間の外部にあるものであり、心象を語るためには事象の強度が不可欠なのだ。
つまり内面だけ、で語ろうとした瞬間につまんなくなっちゃうのよ、という、ごく当たり前のことではあるけれど忘れがちな、なんだかものすごく大事なことを聞いた気分。
続けて同じ著者の本についてここにまとめて記載しようと思ったのだけど、また別記事で。
とりあえずは気持ちの迸りだけの文章にならないよう、精進する。
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