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ここから始まってここへ帰ってまたその先は。 | ぽんこつ歳時記

ここから始まってここへ帰ってまたその先は。

気になる本棚

梅原猛作、1986年新橋演舞場初演。

スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」

主人公小碓命は父帝に命じられて兄橘姫、弟橘姫を帝に献上せず兄橘姫を自分の妻として出仕しない双子の兄大碓命を訪ねていくが、現皇后が自分の子を日嗣の皇子とするために自分たち兄弟を亡き者にしようとする画策に対して言いなりの父帝に対し反旗を翻そうと弟に迫る大碓命ともみ合いになり、小碓命は兄を殺めてしまう。
兄の謀反を帝に告げることのできなかった小碓命は帝から熊襲征伐という名目でわずかの従者もなく都から遠ざけられてしまう。帝の妹倭姫は小碓命をかばうがこれも伊勢の斎宮という形で都から遠ざけられる。
熊襲の国では兄タケル、弟タケルを中心に新宮新築祝いの最中で多くの軍勢に囲まれ、かつそこに蝦夷や琉球からの祝いの使者だけでなく、帝の下についたはずの吉備武彦の姿も。小碓命は大和の踊女として宴席に紛れ込み、熊襲の兄弟を討伐。自分兄弟たちが誰よりも強いと思っていたのにそれ以上の者がいたとして、熊襲タケルより「ヤマトタケル」という称号が献ぜられる。
小碓は熊襲討伐の成功に喜び勇んで大和の国へと帰還するも、直後に吉備武彦を従者として蝦夷征伐を命ぜられ、数日の後に出立することに。このとき兄の妻であった兄橘姫を妃として迎え、その後兄橘姫はワカタケルを授かる。
熊襲征伐の成果にも関わらず父帝の怒りが解けないとこを嘆きつつ伊勢を訪ねた小碓に倭姫は神剣を預け、さらに弟橘姫が小碓に付き従うことに。
強い力を持ちながら決して満たず寂しげな小碓命の在り様に武彦も心を惹かれてゆき、いつしか忠実な腹心となる。焼津での焼き討ちを神剣で搔い潜り相模国造のヤイラム・ヤイレポ兄弟を討つも、その後走水にて最愛の弟橘姫は荒れる海を鎮めるために自ら入水してしまう。
蝦夷の出身のヘタルベも仲間に加わり蝦夷征伐も成し遂げ、その時点では小碓命を排除しようとしていた妃も亡くなって小碓命が日嗣として有力視される状況の中、小碓命は尾張にてみやず姫を娶る。大和に帰る前に伊吹山の鬼神退治の命が下り、神剣を草薙剣として熱田に預けて退治に臨んだ小碓は思わぬ深手を受けることとなり、故郷の大和を目前に命絶える。

歌舞伎を観るようになって十年そこそこなので、残念ながら三代目猿之助丈や勘三郎の舞台を生では観たことはない。ただ自分が歌舞伎を観るきっかけになったのは四代目猿之助だったこともあり、この作品もシネマ歌舞伎として四代目のヤマトタケル、團子ワカタケルを観に行っているのだけど、どういうわけかその時の作品の印象はさっぱり記憶から飛んでいて、同じ上映回に来ていた近くの席の2人組のおばさまにびっくりするくらい分厚い卵サンドをお裾分けされて、目を白黒させながら口の中に収めたとかいうようなことしか覚えていなかったり。

まさに弱冠二十歳の團子タケルは、それはもうまっすぐで純粋な守ってあげたいヤマトタケル。

四代目襲名よりも7年前の30歳当時、市川亀治郎としての対談。

初読時点ではまだ30歳にして梅原氏とほぼほぼ互角ではないかとすら見える四代目の知性に圧倒されるばかりだったけど。

1000回目の公演迎える数日前の舞台から帰ってきて久しぶりに本棚から手に取って読み返すと、『オグリ』も『三国志」も『ワンピース』も、事件前の明治座での歌舞伎スペクタクル『不死鳥よ 波濤を越えて』も、すべてがこの『ヤマトタケル』に始まっていて、そして襲名前のこの時点ですでに四代目市川猿之助という役者は出来上がってしまっているのではないかという気すらしてしまう。

正直言って歌舞伎の中でもスーパー歌舞伎というジャンルについてはそこまで好きかというとそうでもなかったりする。なのにどうして10年近くも四代目市川猿之助を軸に舞台を追うようになったのか。それはこの対談の中で如実に浮き上がってくる、比類ない才気に溢れているのにどこか虚無を抱えている役者から目が離せなかったから。

決してこんな形で終わってほしくはない。

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