四月の仁左玉。

遊びをせんとや

昼の部の愛之助菊之助「浪花鑑」は去年六月博多座でも見ているし、と今回パスしたものの、お梶が米吉くんなら観にいった方がよいのではという逡巡を抑えて今月は結局夜の部のみ。

於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり) 土手のお六 鬼門の喜兵衛

なんだか毎年この月は仁左衛門、玉三郎という気がするし、「土手のお六」も、ついでその後の舞踊演目「神田祭」も割と最近。

「お染久松」といえば先月鶴松くんのお光で野崎村を観たばかりなのだけど、同じお染久松でも今月のは全く別の作品。先月のは近松半二(1725~1783)作、今月のは四代目鶴屋南北(1755~1829)。1813年森田座初演で、新版歌祭文の初演からは30年以上後の作品になる。

そもそもお染、久松の心中事件はいつだったのか。確認してみたら1708年と、両作品よりもかなり前の話。

心中ものといえば四代目南北からは100年近く遡る近松門左衛門(1653~1724)。曽根崎心中(1703)や天網島(1720)はすぐその年のうちに浄瑠璃として初演となっている。

お染久松の心中事件についても3年後の1711年には人形浄瑠璃『お染久松袂の白しぼり』として上演されてはいるものの、『色読版』でのお染久松の名は、当時の時点で実際の個別の事件を想起するよりはすでに単なる心中の代名詞としての響きでしかなかっただろう。話の舞台からして上方から江戸に置き換わっているし。

お六って誰なのよという。

そして今回の「土手のお六」の段、もはやお染も久松も登場しない。『東海道四谷怪談』の忠臣蔵どこ行った?と同じくらい現代にしてみればその設定話にどう機能してるのやらもうよくわからない。

登場人物はお六(玉三郎)と夫喜兵衛(仁左衛門)、油屋主人太郎七(彦三郎)、油屋手代久助、丁稚、嫁菜売りの久作(橘太郎)と丁稚、お染との縁談が持ち上がっている山家屋の清兵衛(錦之助)、通りすがりの髪結い(福之助)。

嫁菜売りが茶店に荷を預けて離れたところに油屋手代が店から刀の折紙を持ち出したのを、同じく油屋丁稚に見とがめられる。手代は丁稚に金を握らせた上言いくるめて追い払い、折紙を嫁菜の籠に隠して持ち去ろうとしたところに戻ってきた嫁菜売りともみ合いにあり、嫁菜売りが怪我を負う。ここに油屋太郎七と山家屋清兵衛が油屋の質流れの袷と幾何かを久作に支払ってその場を収める。

場面変わって向島の莨屋。雑事引き受け糊口をしのぐお六の元に、かつての奉公先の奥女中から百両の工面についての相談が持ち込まれる。恩ある家の一大事にお六はどう用立てたものかと思案するところに早桶屋が河豚に中って死んだ丁稚の入った早桶を店先に預けて場を離れたところに、髪結いと嫁菜売りが来合せる。嫁菜売りは怪我のいきさつを語って立ち去ろうとする髪結いに乱れた鬢を直してもらい、ついでに手に入れた袷の寸直しと半纏の繕いをお六に頼んで自分もその場を去る。嫁菜売りの話から油屋を強請ることで百両が作れないかと考えた喜兵衛とお六は早桶の中の丁稚の死体を、油屋に駕籠で持ち込む。

なんで百両を用立てる義理があるのかとか、そのあたりには清兵衛・お六と久松との因縁というか関係が背景にある(らしい)のだけれども、そもそも久松が武家のうんたらかんたらに及んでもはや完全に歌舞伎あるあるの虚構設定だし、この演目も通しで演じられることなど今後まずないだろうから、ますますそういったことには触れられないだろう。

そんなことはどうでもよくって所謂悪婆の玉三郎、そして仁左衛門のかっこよさと、強請に失敗して店からすごすご退散するときのギャップの可笑しみを楽しむのが今月の夜の部の正しい観劇。二人が同じ舞台同じ空間にいる、ただそれだけで演目が成り立ってしまう、それが仁左玉。

仁左玉の舞台を私はこの先も見ることがあるだろうか。

神田祭を踊り終えて花道を帰っていくお二人のあと、すぐ後ろの幕見席の入れ替えで出ていく年若の女の子たちが「よかった~」「もう通っちゃいそうな勢い~」と言い交しているのが聞こえてくる。えぇえぇぜひそうなさいまし通いなさいまし、と心の中で声をかける。ついこないだ同じ演目見た記憶でも見とかないといけない気がしてしまう、それが仁左玉。

でもひょっとしたら、私には最後の仁左玉になるやもしれんという思いもふとよぎる。縁起でもないことを言うつもりはなくても仁左さま80代で玉さまだってあと5,6年。これだけの舞台を今勤めているってだけでも凄いこと。

それ以前にこれまでみたいな歌舞伎座通いを自分はできなくなる、その見込みがいよいよ今年いっぱいだという個人的事情の方が実は先。

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