昨日の歌舞伎の話での台詞の聞き取りづらさについて書き足し。他に聞き取りづらさを感じる役者さんとしては実は右團次さんも(今回は夜の部のみの出演で見ていないのだけど)。
聞き取りづらいのがよくないことかというと、そうとは思わない。たまたま自分の聞き取りづらい音域なだけの可能性もなくはないのだし、自分が勉強不足なだけで演目などによってはそういう発声の台詞回しの流儀だったりするのかも知れない。
ほとんど聞き取れないからといってSOUL’d OUTがダメだということもないしサザンオールスターズだって出てきた当時は聞き取れない代表格みたいに言われてた。と歌舞伎でもなんでもない例えをいきなり引くのもなんなんだが。
何が言いたかったかというと、聞き取りやすさが役者や歌い手の良し悪し/好き嫌いの条件ではない、と。滑舌よく聞き取れてしまうがために却って気恥ずかしくって聞いてられなくない、なんて歌も少なくないんだが、それはまた言葉のセンスという別の問題も絡んでくるので、その話は一旦置いといて。

ついでだからもう少し前に書いた『奥田民生になりたい~』についても。
『ベティ・ブルー』を引き合いに出したものの、狂わせガールと(自らが)狂ってるガールを対比するのがそもそもおかしいと自分でも後から思った。相手に会わせて自分を変えていくという点では三谷幸喜『スオミの話をしよう』(2024)の方がよかったかも。スオミの方には本当の自分を見てほしいという思いが一応ある?みたいだけど(分かってほしいなりの振舞ではなくないか?とは思うんだが)、狂わせガールにはそれすらない。
そしてそんなことより。見せたい自分像のセルフプロデュースに成功したはずの主人公コーロキは結局シアワセなのか。シアワセでないのか。
そもそもシアワセって何よ、と最近よく考える。この際コーロキくんのことなどどうでもいい。自分にとってのありたい自分、自分にとってのシアワセって何、と。
今朝も3時半から猫に起こされて、空が明るくなってからベランダに出てメダカに餌を撒いて鉢に水を撒いて、マツバボタンの咲き終わった花がらを摘み。
出かける予定もなかったので午前中のうちに部屋着、シーツ枕カバーを洗って網戸の外側面の土埃を落とす。内側と窓ガラスはまた来週。

もうひとつ。4日マルジャン・サトラピの訃報。「夫の死から1年を経て、悲しみのあまり」。見るべき程の事を見終えたのか。


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