
2017年の映画化当時は書店で流れる映画のプロモーションを横目にスルー。「奥田民生」という固有名詞のアイコン化がとにかくすごいなと記憶していた作品。
今になってようやく一通りを観てみて、筋としては当初のタイトルで想像ついた通りの展開。あの震災から数年、まるでなかったことのように、そしてその後に控えた疫病のことなどまだ誰も思いも寄らない東京という街と人々の映像がそこに鮮明にある。でもなんかそこに自分がいた気がしないのだ。というのは特にライフスタイル誌の編集部やアパレル広報といった自分含め大多数には縁のない世界が舞台というのもあるが。
ヒロインの狂わせガール希子ちゃんはとにかく美しくていくらでも観ていられる。ただヒロインに感情移入は難しい。
80年代の映画『ベティ・ブルー』のベアトリス・ダルにはあそこまで愛されるのは羨ましいという女子がそれなりにいたと思うが、映画の狂わせガールには闇も狂気もなければ現実感もない。彼女の周りて男の方が勝手におかしばムーブになっていく。
原作漫画のヒロインの方は作画風味も手伝ってか闇深くかつ多少泥臭くもあるんだが、ほぼ原作に沿った映画の中でその部分は潔く削られている。原作の闇深さに対して映画のヒロインはつるんとした体臭のないアンドロイドのような虚無とでも言うか。原作も都度相手の求めるキャラに自分を変えるという点でまた別のニュアンスで虚無には違いない。でも原作のそれがヒロインにとって生きるための手段だったとすれば、映画の方はそれこそAIの機能としてのキャラ設定のような。
破綻の結末の後の主人公は、自分をやりたいことをやって飄々と生きていると相手に印象付けることを徹底的に意識し行動することによって自分の「民生化」。3年後にはフリーの編集者として成功している。
主人公の選択した手段は何も間違っているとは言えないし、自己プロデュースの手段としては正解だとは思う。そもそも彼の抱いていた「飾らず自然体でいても決める時は決める奥田民生」というアイコン像自体が実際の奥田民生という実像に一致しているのかどうかも分からない。それなのにかつてヒロインに振り回されながら民生目指して泥臭くもがいていた過去の自分を思って切ない顔をするのはどうしてだろう。
蛇足だけど漫画の修羅場シーンで主人公が投げつけられた本が「素敵なあなたに」だったり百田尚樹「殉愛」だったりというのが一番笑えた。


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